3.11 東日本大震災

 

東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)

こんにちは、管理人のソラです。

 

今日は、東日本大震災から6度目の3月11です。(これは2017年の記事です)

 

今回の内容は、東日本大震災について、自身が経験した事や感じた事を書きたいと思います。

 

その中で、怖い経験や、嫌な過去を、今回の内容を読んで思い出し、気分を悪くする方も、いるかも知れません。

 

最大限の注意を払いながら書こうと思いますが、表現の至らない部分や内容で、不快な思いをさせてしまうかも知れません。

 

そのよう至らない部分がありましたら、どうかご容赦をお願いします。

 

そして今回のブログは、辛い思いをした方から見れば、僕が経験した事など、取るに足らない内容だと思います。

 

それでも、これが僕の経験した事や、感じた事なので、その当時の事を忘れないため、ここに書き残し、また、この地震を経験していない、海外の方にも、日本で起きたできごとを改めて知ってもらえる機会になれば幸いと考えています。

 

地震が来た時、僕は家に居ました。

 

今まで何度か、大きな地震は経験していたので、揺れを感じた直後、最初はそれほど慌てず、揺れが小さくなるのを待っていました。

 

しかし、その揺れは小さくならず、どんどんと、大きな横揺れになり、机の上に置いてあったコップが倒れ、飛ぶように転がって来ました。

 

パソコンのモニターが、倒れそうな程に前後に揺れ、モニターと近くの、たんすを手で押さえましたが、別の場所にある、手が届かない所の本が何冊も、飛ぶように落ちて来ました。

 

家が壊れると思う程の揺れを感じ、その揺れが数分続き『これ以上揺れたら死ぬ!!』と本気で思った瞬間、嘘のように揺れは小さくなり止まりました。

 

あと10秒、大きい揺れが続いていたら、きっと家が壊れていたと思う程の大きな地震でした。幸い、家の被害は、物が倒れたり、落ちた程度で済みました。

 

テレビをつけると、宮城県で震度7の地震(テレビを見た時はマグニチュード9.0)と、各テレビ局が放送していたので、パソコンで何時間もテレビを録画し続けました。

 

僕の母親の兄(僕のおじさん)は、宮城県の海沿いの地域に住んでいます。地震の時、母親は外に居ましたが、おじさんに電話を掛け、地震直後は、連絡を取る事が出来ましたが、大変だったのは、その後でした。

 

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連絡が取れない

おじさんの家は海から数百メートルの所にあり、テレビの放送でも、津波警報が出ている地域で、震源地からも、比較的近い場所に家がある事が分かり、改めて何度か電話を掛けましたが、繋がる事はありませんでした。

 

時間が経つにつれ、状況が少しずつ分かって来ましたが、悪い内容ばかりでした。

 

地震が起きたのは、2011年3月11日、午後2時46分でした。

 

自分の家の周りの状況も気になったので、近所のコンビニへ行きながら、周囲を確認しに行きました。

 

近所の見える範囲では、外に被害はないようでした。しかし、少し広い道に出ると、ガス臭いような、腐葉土のような、嗅いだことのない臭いが、その辺り一帯に漂っていました。

 

でも、ガスの臭いに近い感じでしたが、やはり、どこか違う感じの臭い。 結局その時は、何の臭いか分かりませんでした。

 

後から思ったのが、かなり離れた場所に、草木の生える土手のある川や、広い芝生のある公園があり、もしかしたら、地震で地面が揺らされ、草木の根が切れ、土の臭いがしたのではないか?と思いました。

 

そして、近所のコンビニの中は、棚から多くの商品が落ち、店内は商品が散乱し、レジ前のおでんは、汁がかなりこぼれ、店員が掃除をしていました。その後、少しの商品を買い、店員にねぎらいの声を掛け、家に帰りました。

 

家の中を確認していると、どこからか聞いた事のない音が、規則的に聞こえて来ました。その音の場所を探すと、風呂に溜まっている水の音でした。

 

既に夕方になり、地震発生から数時間が過ぎているのに、まだ大きく地面が揺れていて、風呂の水を揺らし、波打った水が何時間も鳴り続け、夜の22時近くまで、その音は聞こえていました。

 

その後、おじさんとは、夜になっても連絡が取れませんでした。

 

家に電話を掛けても、携帯電話に何度電話を掛けても繋がらず、その状態が数日続きました。

 

3日程すると、おじさんの住んでいる地域がテレビに映っていました。

 

その状況は、まだ海水が残っいる所もあり、水のない部分でも、画面に映っている場所は、全て津波で流されたんだと、容易に分かる状況でした。

 

その町の状況は、その後も数日放送されていたので、おじさんの家も、同じような被害があるだろうと想像をしていました。

 

そして、最初の地震から4~5日が経過しても連絡が取れず、その頃には頭の中で、最悪の状況も考えるようになり、心の準備を始めていました。

 

連絡が取れない。この状況を、今は神奈川県に住む、成人しているおじさんの息子が知り、僕の母親に『父は生きています。地震直後に車で会いに行って来ました』と教えてくれたのです。

 

息子さん達は、元々その被害のあった町に住んで居たので、道に詳しく、途中、橋も落ちていたり、遠回りをしないと通れない悪路の中も、何度も迂回をしながら、車で会いに行って来たとの事でした。

 

地震が起きてから1週間、やっと、おじさんから電話が来て、生存確認が取れました。後から聞いた話では、その地域は津波の被害が大きく、全てのインフラが止まり、電話も使えなくなり、今まで連絡が取れなかったようです。

 

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そして、少し時間は進み震災から2カ月が過ぎた5月15日、僕はおじさんの家に、生活用品などを持って、会いに行って来ました

 

おじさんの家の近くは、JR常磐線が走っています。この常磐線は、品川駅と仙台駅を繋ぐ電車です。 (おじさんの家に行った時は、まだ上野駅が始発の路線でした)Rushed track ©まめぶろ

しかし、この電車は比較的海の近くを通っている場所もあり、津波被害を受け線路が流される個所もありました。

 

津波の被害で、おじさんの家の近くも線路が使えなくなり、僕が行った時は、まだ電車が通れる状態では無かったので、最寄駅から数駅離れて、バスが振り替え輸送を行っている町役場まで、車で迎えに来てもらいました。Evacuation center / government office ©まめぶろ

その待ち合わせ場所になった町役場は、広い駐車場に、全国各地の地名の入った、自衛隊の車が何台も止まっていて、建物の入口には、人探しの掲示板や、大きな日の丸の旗の真ん中に、筆で力強く『』と書いてある旗などがありました。

 

その絆の文字の周りには、全国から、多くの人の寄せ書きがあり、多くの人の思いが集まっているのを強く感じました。

 

おじさんと合流後、町役場から家に行くまでは、車で10分程でしたが、途中の様子は、津波が来た事を容易に想像できる景色でした。

 

下の写真の奥には、海がありますが、地震から既に2か月が経ち、太陽の光が当たる土の表面は完全に渇き、固くなっています。それでも、自衛隊の方達は、行方不明者を土の中まで、棒などで探していましたThe SDF in search ©まめぶろ

辺りを見渡せば、見渡す限り、固い砂しかない場所で、文字通り『草の根を分けて』、一生懸命に行方不明者を探している姿を見た時には、胸が締め付けられる思いになりました。

 

そこから2~3分車で走り、駅前を通りました。 そこには、おそらく地域の方が思いを込めて作ったと思われる看板がありました。大きさは人よりも、ずっと大きな看板で『自衛隊さん、勇気湧く』と書いてあり、ここでも胸を熱くさせられました。

 

家に行く途中、通り慣れた近所のはずなのに、おじさんが『道が分からないから、迷子になりそうだ』と言っていました。不思議に思い、何故そんな事を言うのか理由を聞くと、津波で全てが流され、目印にしていた建物も流され、景色が変わり、道が分からなくなったと言っていました。

 

おじさんの家は、地震や津波を想定して、家を建てる時に基礎工事に力を入れ、1mの『盛り土をして、その上に家を建てました

 

使えなくなった物 ©まめぶろ

それでも、今回の津波で、1階部分は完全に床上浸水となり、おじさんの家は写真のように1階にある家電や家具、畳などは海水に浸かり、全て使い物にならなくなりました。

 

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真っ暗闇の海水の中を2時間歩く

地震が来た時おじさんは、自転車で犬の散歩に出ていて、揺れが止まるのを待ってから、急いで家に帰ったそうです。犬も普通じゃない事を感じたようで、普段見せない走りで、一生懸命に追走し、急ぎ帰ったそうです。

 

家に着いてすぐ、夫婦でこれからの事を話しをしている時に、津波が押し寄せ、逃げる間もなく、辺り一面は海となってしまったそうです。

 

時間が進み夜になると、辺りの深刻さが分かって来たとの事。

 

辺りは津波に飲まれ、夜は見渡す限り電気の明かりが、一つもない、真っ暗闇になったそうです。おじさんと、奥さんと、飼い犬は家の2階に上がり救助を待ったそうです。

 

飲まず食わず、トイレにも行けず、余震もあったと思います。その中、真っ暗闇な東北の3月の寒さは、いつも以上に寒く感じ、心細かったに違いありません。

 

夜の22時頃、消防団の人が、懐中電灯を持ち、津波の残る水の中を歩いて来てくれたそうです。その時、近所の方たちも、みんな一列に並び、手を繋いで、声を掛け合い、海水の中を歩いて避難したそうです。

 

その時の海水は、胸の高さ程あり、足元も見えない場所を2時間かけ、先ほどの町役場まで歩いて行ったそうです。

 

下の写真は、津波の後、海水が無くなり、その後に残ったゴミです。海水が無くなっても、潮が畑や家に残り、ひどい状態でした。The garbage remaining after the tsunami ©まめぶろ

 

海水が無くなった後、おじさんたちは、しばらくして家に戻って来る事が出来ましたが、電気が使えるようになったのは、震災から1ヶ月半程過ぎた4月末だったそうです。

 

Neighborhood appearance ©まめぶろ

電気も通ってないのでテレビも見れず、今の自分たちや、周りの地域が、どんな状況なのかを知る事も出来なかったとの事です。

 

その後、おじさんは家の修理をする間、仮の住まいに居ましたが、今は元の家に戻り生活をしています。

 

下の写真は、おじさんの家に行った時、庭に咲いていた花です。 Flowers blooming in the garden ©まめぶろ

家に戻るのも、直ぐには戻れず、海水が無くなり乾いても、潮が床や柱に染み込み、なかなか抜けないそうです。

 

家の太い柱も、組み込み部分が、ずれている場所もあり、家の修理や、泥の排出や、保険会社との話し合い等々、やるべき事は、山積みだったそうです。

 

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地震は怖い

今までの自分の経験では、震度5の地震は、それまでは10年に1度あるか、無いか位の感じでしたが、震災後の1ヶ月は、毎日何回も震度5が来ている感じで、1年以上、大きな地震が1日に何度も来る日が続きました。

 

地震のない国の方も、これを読んでいると思うので、念のため、海外の方用に、震度について書いておきたいと思います。以下は僕の主観で書きました。

 

震度1:気が付く人は殆ど居ない。何かに集中していたら気が付かない程度。

震度2:動いている人では、気が付かない人もいる程度の揺れ。

震度3:誰もが地震と気が付く揺れで、不安定な物は倒れる。

震度4:立っていると、めまいと間違える程の揺れで緊張を覚える。

震度5:恐怖を感じ、かなり揺れる。古い壁などは落ちる事もある。

震度6:道路や家に、ヒビが入り、多くの建造物が倒れる。

震度7:自立は不可能。古い家や建物は全壊する。 東日本大震災級

 

更に細かくは、震度5と6には、弱と強の2段階に分かれます。

 

日本は地震の多い国です。

 

しかし、地震を除けば、日本はとても住みやすく良い国だと思います。いま強く願うことは、地域の復興と被災者方の安らぎです。

 

そして、この3.11の地震を少なからず経験した僕は、この事を忘れずに伝えたいと思います。




 

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